「昨日、悲別で」上砂川-1
こんにちはジュエリーニシオカのにしおかまさるです。
ブログ(第78回)私は北海道出身と記しており 過去のブログを読み返してみますと
私の故郷は 北海道『上砂川町』
この『上砂川町』は倉本聰さんの脚本で1984年3月から日本TVで13回に渡って俳優 雨宮良さんで放送された町
『昨日、悲別で』 上砂川がモデルの架空の町
駅名『悲別』
ドラマ放送当時一度も見たこともなく、最近ケーブルテレビの放送で初めて見ました
13年程前から、中学校のクラス会が札幌で開催されるようになり2年に一度の割で開かれることになり
3回目から私が幹事になり、札幌でいつも開催され上砂川を見ることもなく、クラス会一度くらいは我が故郷上砂川町で行いたいと思いました。
砂川市で出席者全員と待ち合わせ、札幌近郊に住んでいる先生を含め車で来た友の車に分かれ同乗
途中上砂川中学校で記念撮影をして、
『昨日、悲別で』モデル駅が撮影が終了しても取り壊されることなく上砂川駅の横に撮影時のままで展示されており
中学時代はいつも駅前を自転車で通っており、高校に入ってからは毎日「電車(ジーゼル)」通学ですから必ず利用いたしました。
よく出来た上砂川のモデル駅名「悲別」=「上砂川」で高校時代が思いだされました。
ここで全員で記念写真を
わずか10人位の中学校のクラス会でしたが、各人思い思い違った感想を持ったことでしょう。
上砂川町当時人口3万2千人程であり町から市に変更出来たにもかかわらず町で通した炭鉱町でした。
今は人工3千人にも満たない町となり、私が住んでいたところはすでに取り壊され町全体が半世紀前には大いににぎわった炭鉱町が今や廃墟の町のようでした。
しかし故郷を持つ人間としてたとえ廃墟化されても、故郷には変わり有りません。
『昨日、悲別で』ケーブルTVで見ていてもここが私の故郷とは思えず、
ドラマとして見てしまい、上砂川の隣に 歌志内市があり、そこには悲別ロマン座があり
このロマン座の入り口には
昨日悲別で 少年が生まれ 今日悲別で 少女と出逢った
明日悲別に 小さな灯がともる
『昨日、悲別で』
倉本聰さんの書いた詩が刻まれております
次回も少し書かせていただきたいと思います。
さいごまでおよみいただきましてありがとうございました。
にしおかまさる
ジュエリーニシオカ(https://e-dia.jp)
いつまでも、心に残る道元さまのお言葉。
いつもお読みいただきましてありがとうございます。
お読みになり実践することでご神仏さまから「徳」をいただくことが出来ます。
永平寺TV番組で
自己をみつめ、自我を捨て無我になる。
あらゆるしがらみやこだわりが抜け落ち身心脱落が出来ると。
道元さんのお言葉でとても好きな言葉で
仏道をならうというは 自己をならうなり
仏教を学ぶということは 自分を学ぶことである
自己をならうというは 自己をわするるなり
自分を学ぶとは 自分を忘れることである
自己をわするるというは 万法に証さるるなり
自分を忘れることは 森羅万象から学ぶこと
万法に証さるるというは
全てが謙虚になり、一心不乱にやることで、宇宙の真理を体で感じ取ることができる
自己の身心および他己の身心をして
自己に閉じ込められ、自己にこだわっている間は世界の心理は見えず
脱落せしむなり(こちら)
自己が自由自在に動くときには、全てがいきいきと活動する。
最近、「自己(自分)」とはもう少し堀下げてみました。
【真の自己とは】
我々は時間的に無限の先祖とつながり、親から祖父母さらに遡ると宇宙の生成力につながる大いなる命であると。
「時間的に無限の時間、空間的に無辺の存在、この時間制と空間性の交差する中心に私がある」という、これが【真の自己】であると。
これが「真の自己」であると、ここの解釈は自分の存在は現実であり、その他のものは全てが無なのでしょうか?
それに対して「その時間、空間をきり取って抽象したものが自我であると」言っておられます。
神我=自我=無我
大いなる命に目を向けず自分の体格、数十年の経験だけが自己の全てと思い込んでいるのです。
また、一切の空間、無限の命と連なって自分というものは初めて存在できると。
天地無限の命を今、私たちは生きているといっておられ、
「生かされた立場から生きる立場に転換して、大きな生命により生かされている私がその大きな命に報いるために自ら生きる。
それが人生というものである」。
禅の教えを学びたく、本を読みしかし今だ理解できないことが多く正直いつも仏教はなぜこんなに難しく書いているのだろうかと思い、もっと現代流に訳された本がたくさん有っても良いかと思い、
当ブログでは自分なりに現代風に書いたものを投稿して、きっと専門家の方はもっとよく勉強をして下さいと。
大森曹玄老師さんの、自己の教え今迄と違った自己を学ぶことができこの講話に出会えたことを心から感謝致します。
生きとして生けるもの全てが幸せでありますように!
人は何故、幾度も輪廻転生をして生まれ変わるの?
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いつも、素人の私が仏教を知ったかぶりをして投稿されることに不快感を感じる方もおられると思います。
何か他に目的があるのではないかと
一切ありません、自分が学んだことを投稿することで自分も学び現代風に直し、我が汚れた魂を向上させたいだけであります。
仏教は難しくても学んだことは必ず自分に返ります。
六根清浄をご理解いただけたなら目、耳、鼻、身、意に嫌なことを感じたり言ったり触れても魂に不浄なものは入れない。
心をいつも整理することは自分の心を大切にする事なのです。
そうすることにより、いつも自分の心の中は穏やかであるから五臓の機能も正常化されます。
大切なことは「私の心の中いつも穏やかです」と感謝の気持ちを持つことです。
人は死なない、(肉体は亡くなっても、魂は未来永劫生き続け)、魂の向上を図ってそのため人は幾度も輪廻転生繰り返します。
心の奥深くにある自分の「本当の心」を知っていただきたいと、これを「神我」と言います。
人は生きて行く上で【神我」の意味を知ることで、何故自分の人生がこのように困難が続くことが理解できます。
「死」も今迄のように恐れなくなります。
人生長く生きて参りますと良いことも悪いこともする。
人はそれに必ず気がつきます。
誰もが、人間から違う動物に生まれ変わるのは遠慮したいもの、だから過去を反省しようと心がけます!
大きな悪業を犯してない限りあまり心配のないように?
このブログを読まれた方は善行を実行することでご神仏さまより【徳】がいただけます。
何度も言います「人間に生まれ変わるのには爪に乗せた砂ほどであると」。(こちら)
人間に生まれたことに感謝をして今を「今」をどんなに苦しくても大切に生きる、あなたがどの様な状態であってもあなたが選んできた自分の人生なのです。
今を一生懸命に生きる、決して自ら命を絶たない。
命という字【人・一・叩・】の三文字、人は一度は叩かれるという意味だそうです。
病は六根の乱れとも言われ、常に自分の心が穏やかであること、すると五臓の神さまがあなたを守って下さいます。
人は、善いことも悪いこともしており自分は絶対悪いことはしていないという人はいないと言います。
仏教では何も悪業ばかりでなく、「嘘」自分の過去に「嘘」をついたことはありませんか?
仏教には五戒という規律があり嘘つくことや、虫さえ殺してはいけません。
人をおとしいれる行為もいけません。
慚愧懺悔では悪さをすると(悪行)と言い、悪行には「自我」が出てしまい(迷い・不安・ねたみ・執着心)を「無我」にすることでこれらは解決いたします。
「以前、私はあなたは何故生まれてきたのですか?」
という問いに、さて何のためなのかすぐに答えが出ず、何日か後にいつも書いているノートに自分は何故生まれてきたかを書いておきました。
今、読み返しますと間違ってはいないのですが、ノートに記録しておくことはとても良いことであり、当時の自分の心を知る上では大きな宝です。
先日たまたま目にしたもの中に、人は輪廻転生を何万回も繰り返しておりますと。
此処で驚いたのは何万回の言葉であり、よく考えますと充分可能性はあり、魂は幾度も輪廻転生を繰り返しているのです。
六根清浄を知ると不思議と
良いことが身の周りに起こり始めます、天地無限の命に感謝をして
生きとして生けるもの全てが幸せでありますように!
ジュエリーニシオカ(https://e-dia.jp)
にしおかまさる
慚愧懺悔「六根清浄大祓詞」を理解しさらに大きな変化へ-4
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西村栄信さんが書かれた【生き方。死に方。】より途中割愛させていただいて投稿させていただいております。
中国のお話です。
仏という字だけは聞きたくないと、趙州(じょうしゅう)和尚は言う。
趙州和尚は当代稀に見る慈悲深い人である人が「和尚さんは死んだら何処へ行かれますか」と尋ねますと「真っ先に地獄に堕ちる」という。
またどうして和尚様が地獄へ、「それはあなたに会えるからだ」と言われ、それを聞いた人は、さすが立派な和尚様、地獄に堕ちた人をすくおうとする。
生は偶然、死は必然という。「人の生を享けるは(天から授かる)難し、死すべきものの、今命あるは有り難し」
人間として生まれてくることは「爪の上の砂」ほどの確率しかないのだと仏陀は教えている。
それほどに稀少な命を自分は一体どの様に過ごしたかと忸怩(じくじ)たる思いに襲われるのは私ばかりではないであろう。
(忸怩)とは自分の行動を恥じる思い、慚愧に堪えない。
誰しも人知れずはかり知れない悪業も重ねて一生を過ごすであろう。
それらをどう償えばよいか。
この期に及んで償いの余裕は有るのか。
いや、そのような時間はもうない。地獄の(獄卒)たちが門前に迎えに来ている。
「(獄卒)地獄で亡者を痛める鬼とも言われている」
こうして皆早かれ遅かれ、大晦日のあの忙しさにも似て追い立てられ死出の旅路に着くことであろう。
年末の大掃除のようにもっと早くから準備を始めておかなければならないのだ。
此処からは自分なりに書いて見ます。
自らの悪業を顧みて、歳はいくつであろうと道元いわく「生きている間は生であり死ねば死」
生きている間に心から反省をして自分の幸せと他者の幸せを念じることも立派な慚愧懺悔六根清浄です。
悪業の数々を反省することに善悪はありません。
人間生きている間善いこともすれば、悪いこともする。
善行ばかり積む人などはおおよそこの世の中にはおられないと思います。
仏陀曰く、自分の生死についての悩み苦しみは人間の根本的な苦悩とおっしゃっておられます。
最近神道、仏道、共に教えの先は同じではないかと思うようになります。
神も、仏も決して人を裏切る事はありません。
むしろ裏切るのは人の心です。朝夕手を合わせることが出来なければ、布団の中で手を合わせてもいいと思います。
感謝を忘れないことです。
「人は神の子、神の子であるなら神の子」らしくこれから生きて行けばよいだけのこと。
神さま、仏さま、ご先祖さまを敬い、日々神様からは新たなる全徳の無限の無限の輝きを一杯いただきましょう。
日々徳を頂き自分の運をきり開いて行くことが何よりも喜んでくださいます。(こちら)
最後に、無常霊宝神道加持とは
神道一切のはじめには「無常霊宝神道加持」と言い、はじめとは「大宇宙の始まり」無情とは天照皇大神さまがおられます「高天原」、
「宝」とは龍神祝詞にもあります「十種の御宝」(とくさのみたから)天孫降臨の際、ニギニギノミコトが天照大御神から授かった天上界のお宝。
この六根清浄大祓詞は祝詞でも特別な意味を持つ大祓詞の祝詞と言われております。
生きとして生けるもの全てが幸せでありますように!
慚愧懺悔「六根清浄大祓詞」を理解しさらに大きな変化へ-3
いつもお読みいただきましてありがとうございます。
お読みになり実践することでご神仏さまから「徳」をいただけます。
人は、悪業を重ねたから地獄に行くとは限りません。(こちら)(もちろん悪業にもろりますが、反省をして善き行いを重ねることです。
必ず救われ、その為に仏様はおられるのです。
釈迦によれば生死の悩みは人間にとって根本的な苦悩であり、「人間を生死の苦しみから救うのは仏である」と説いております。
ブログを読んでくださっている方には自分も多少の罪悪はある、しかし一体六道のどこに行くのか不安と思う方もおられると思います。
地獄、極楽は自分の心の中にあるのです。(こちら)
地獄地獄とあおるばかりでなく、その人が今後安心して人生を送れることが私が願うことであります。
自分の心がけ次第で人は必ず救われます。
地獄であえぐ悪人がおり、生前蜘蛛を助けたことを知ったお釈迦さまはこの男を地獄から救い出そうと一本の蜘蛛の糸を天国から垂らしました。
これ幸いと悪人は蜘蛛の糸にぶら下がり登りますと、下を見ると多くの悪人が蜘蛛の糸にぶら下がっており、これでは糸は切れると思い悪人はこの糸は自分の物だから手を放せと、
途端に糸は切れてしまいます。
自分だけが助かろうとした行いが又地獄に戻るはめに。
芥川龍之介之著書に杜子春があり、この本の内容は自分が見てきたもの「全てが幻」、六根清浄大祓詞を思いました。
自分の幸せばかりでなく他者の幸せを忘れず
人は苦しい時にはご神仏さまに頼り、良くなると忘れる。
神の心はかわらぬものを、変わりやすいは人の心
大切なことは「爪の上の砂ほどの確率」で人間に生まれるという、私たちは今図らずも奇蹟のような命を今生きております。
今を生きることに感謝をして清い心を今一度思いおこし子供のような心。
犯した罪や悪業は何度も言いますように消すことはできません。
真心を込め反省をして日々悪業に懺悔して六根清浄大祓詞を思い出し、魂が汚れることは絶対避けること。
よくネットで見るのは慚愧懺悔六根清浄、六根清浄大祓詞などを目にしても仏教用語は難しくなかなか理解できません。
最初から全て理解しようとするから途中で投げだしたりいたします。
解からなくてもいい、
「善いことをする、自分の魂を傷つけない、人の心を傷つけない、自分の幸せ、他者の幸せ、慈悲の心」
この心が芽生えて、魂は必ず穢れが落ちていきます。
浄土真宗では全てお亡くなりになられた方は全ての方が極楽浄土に行かれると説いております。
南無阿弥陀仏を日々唱えることで阿弥陀如来様が亡くなられた方をお迎えに来られます。
しかし、別の宗派では死後49日であなたの生前の行いが閻魔大王の前で全てがさらされるという、人間界でいう裁判があるとも言われておりやはり一番気になるところです。
気になる方は「自己を見つめ」「自我を捨てる」
このことだけでどれだけ肩の荷が軽くなるか。
人はだれでも死への恐怖と不安が付きまといます。(こちら)
「生・老・病・死」の苦しみはどなたにもあります。
生まれた時にすでに死への旅立ちは始まっていると言います。
生きとして生けるもの全てが幸せでありますように!