慚愧懺悔「六根清浄大祓詞」を理解しさらに大きな変化へ-3
いつもお読みいただきましてありがとうございます。
お読みになり実践することでご神仏さまから「徳」をいただけます。
人は、悪業を重ねたから地獄に行くとは限りません。(こちら)(もちろん悪業にもろりますが、反省をして善き行いを重ねることです。
必ず救われ、その為に仏様はおられるのです。
釈迦によれば生死の悩みは人間にとって根本的な苦悩であり、「人間を生死の苦しみから救うのは仏である」と説いております。
ブログを読んでくださっている方には自分も多少の罪悪はある、しかし一体六道のどこに行くのか不安と思う方もおられると思います。
地獄、極楽は自分の心の中にあるのです。(こちら)
地獄地獄とあおるばかりでなく、その人が今後安心して人生を送れることが私が願うことであります。
自分の心がけ次第で人は必ず救われます。
地獄であえぐ悪人がおり、生前蜘蛛を助けたことを知ったお釈迦さまはこの男を地獄から救い出そうと一本の蜘蛛の糸を天国から垂らしました。
これ幸いと悪人は蜘蛛の糸にぶら下がり登りますと、下を見ると多くの悪人が蜘蛛の糸にぶら下がっており、これでは糸は切れると思い悪人はこの糸は自分の物だから手を放せと、
途端に糸は切れてしまいます。
自分だけが助かろうとした行いが又地獄に戻るはめに。
芥川龍之介之著書に杜子春があり、この本の内容は自分が見てきたもの「全てが幻」、六根清浄大祓詞を思いました。
自分の幸せばかりでなく他者の幸せを忘れず
人は苦しい時にはご神仏さまに頼り、良くなると忘れる。
神の心はかわらぬものを、変わりやすいは人の心
大切なことは「爪の上の砂ほどの確率」で人間に生まれるという、私たちは今図らずも奇蹟のような命を今生きております。
今を生きることに感謝をして清い心を今一度思いおこし子供のような心。
犯した罪や悪業は何度も言いますように消すことはできません。
真心を込め反省をして日々悪業に懺悔して六根清浄大祓詞を思い出し、魂が汚れることは絶対避けること。
よくネットで見るのは慚愧懺悔六根清浄、六根清浄大祓詞などを目にしても仏教用語は難しくなかなか理解できません。
最初から全て理解しようとするから途中で投げだしたりいたします。
解からなくてもいい、
「善いことをする、自分の魂を傷つけない、人の心を傷つけない、自分の幸せ、他者の幸せ、慈悲の心」
この心が芽生えて、魂は必ず穢れが落ちていきます。
浄土真宗では全てお亡くなりになられた方は全ての方が極楽浄土に行かれると説いております。
南無阿弥陀仏を日々唱えることで阿弥陀如来様が亡くなられた方をお迎えに来られます。
しかし、別の宗派では死後49日であなたの生前の行いが閻魔大王の前で全てがさらされるという、人間界でいう裁判があるとも言われておりやはり一番気になるところです。
気になる方は「自己を見つめ」「自我を捨てる」
このことだけでどれだけ肩の荷が軽くなるか。
人はだれでも死への恐怖と不安が付きまといます。(こちら)
「生・老・病・死」の苦しみはどなたにもあります。
生まれた時にすでに死への旅立ちは始まっていると言います。
生きとして生けるもの全てが幸せでありますように!
慚愧懺悔「六根清浄大祓詞」を理解しさらに大きな変化へ-2
いつもお読みいただきましてありがとうございます。
お読みになり実践することでご神仏さまから「徳」をいただけます。
どなたもお持ちになる「大小の罪」あなただけではないことを理解して下さい。
自分の心の中を見ることで人は皆大なり小なりの罪をもっているという事です。
「慚愧懺悔とは」
懺(さん)とは…「心のとがを天に恥じ、自分に恥じること」
愧(き)とは…「自分の罪を地に恥じ、他人に恥じること」
「六根清浄とは」…「六根」とは私欲や煩悩、迷いを引き起こす目・耳・鼻・舌・身・意の六つの器官、「清浄」とは煩悩や私欲から遠ざかり、清らかで穢れのない境地。
「慚愧・懺悔」犯した罪は決して許されるものではない。
しかし日々罪を反省して慚愧懺悔六根清浄を唱え、自利他己「自分を忘れて他者の幸せのために祈り尽力すること」
天台宗では忘己利他【もうこりた)という言葉を使っております。
魂を清らかにするために汚れたものを現象で見えても我が魂には入れない。
【このことが基本となります】
(カッコ内は)現代訳詞にして見ました。
天照皇太神の宣はく
(天照皇大神さまはこのように言われました)
人は則ち天下の神物なり
(人は地上に現れた神の子分け御霊です)(こちら)
須掌静謐 心は則神明の本主たり
(本当の心こそ神と人の大木である)
心神を傷ましむること勿れ 是の故に
(自分の魂を傷つけないようにしよう)
目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
(目にたくさんの汚いものを見ても魂には持ち込まない)
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
(耳にたくさんの汚いものを聞いても魂には持ち込まない)
鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず
(鼻にたくさんの嫌な臭いをかいでも魂には持ち込まない)
口に諸の不浄を言いて 心に諸の不浄を言わず
(口でたくさんの嫌な言葉を発しても魂には持ち込まない)
身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず
(身体にたくさんの汚れた物に触れても魂には持ち込まない)
意に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず
(心にたくさんの不浄のことを考えても魂には持ち込まない)
此の時に清く潔き偈あり
(この時には心は清く澄んでおります)
諸の法は影と像の如し 清く浄ければ
(多くの現象は陰や映像であり実体ではない)
仮にも穢るること無し 説を取らば得べからず
(もともとが清いのだから汚れることはない)
皆花よりぞ木実とは生る 我が身は 則ち 六根清浄なり
(この身体は神様から生まれた清いものですよ、この身は六根清浄なんです)
六根清浄なるが故に五臓の神君安寧なり
(六根清浄だから、心の中におられる神様が五臓を守ってくださるのです)
五臓の神君安寧なるが故に天地の神と同根なり
(心の中の神さまが、穏やかで天地の神さまも穏やかなのです)
天地の神と同根なるが故に万物の霊と同躰なり
(天・地・人の神さまが一体なので霊魂もひとつ)
万物の霊と同躰なるが故に
(自分の魂と万物(宇宙に存在するあらゆるもの)の魂もひとつ)
為す所の願いとして成就せずといふことなし
(万物の霊と一体であるから願うものは全て成就「かなえられる」)
無上霊宝 神道加持
いかがでしょうか、六根清浄大祓詞
(カッコ)内を覚え我が魂に不浄なものは入れない、これが六根清浄です。
次回は(慚愧懺悔)(六根清浄)のつながりを投稿します。
全てがつながっております。
慚愧、懺悔「六根清浄大祓詞」を理解してさらに大きな変化-1
いつもお読みいただきましてありがとうございます。
お読みになり実践することでご神仏さまから「徳」をいただけます。
当ブログで「慚愧・懺悔・六根清浄、今後の人生に大きな変化があります」。(こちら)
過去413回投稿した中でも過去に類を見ないほど多くの方に読んでいただきました。
弊店のブログは素人の私がどなたさまにも分かるように言葉を選び今まで投稿してまいりましたのですが、「慚愧・懺悔・六根清浄、今後の人生に大きな変化があります」に置かれましては
とても大きな反響をいただき
さらに「六根清浄大祓詞」を日頃から心がけることで心に、生活に大きな変化が生じ「六根」は般若心経で「無、眼、耳、鼻、舌、身、意(むーげんにーびぜっしんに)」と有ります。
実際、六根清浄大祓詞を奏上しますと無意識ながら他の祝詞では感じられない程に心が和みます。
この「六根」(眼、耳、鼻、舌、身、意)とは、仏教では六識を生じる6つの感覚の総称のことです。
「六根清浄とはその六根に生じる罪を清めて消滅させよう」というものになります。
六根清浄大祓詞は
結構解かりやすい言葉ですのである程度お分かりになるかと思います。
天照皇太神の宣はく
人は則ち天下の神物なり
須掌静謐 心は則神明の本主たり
心神を傷ましむること勿れ 是の故に
目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず
口に諸の不浄を言いて 心に諸の不浄を言わず
身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず
意に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず
此の時に清く潔き偈あり
諸の法は影と像の如し 清く浄ければ
仮にも穢るること無し 説を取らば得べからず
皆花よりぞ木実とは生る 我が身は 則ち 六根清浄なり
六根清浄なるが故に五臓の神君安寧なり
五臓の神君安寧なるが故に天地の神と同根なり
天地の神と同根なるが故に万物の霊と同躰なり
万物の霊と同躰なるが故に
為す所の願いとして成就せずといふことなし
無上霊宝 神道加持
お彼岸はこの世とあの世を今一度お考えになる日でもあります。
お彼岸も過ぎて、10日程経ちます。
今一度お彼岸を御考えることもご先祖供養に成るかと思います。
お読みになり実践することでご神仏さまから「徳」をいただけます。
二月ほど前にお盆を迎え、ご先祖さまとの楽しい日々を過ごし、すぐにお彼岸がやってきました。
お彼岸は秋分の日を中日に前後3日間で7日間をお彼岸と言い、お盆とお彼岸の違いを意外と知らない方が多くおられ、私のブログでは簡単に違いを投稿してみます。
違いを知ったのは10年程前かと思います。
お盆は、ご先祖さまが郷帰りをする日であり、私たちも郷帰りをしてご「先祖さまのあり日を思い出し」楽しいひと時を過ごします。
13日は家族でご先祖さまを玄関で迎え火を焚き、16日には又送り火を焚きご先祖さまをお送りいたします。
「迎え火は嬉しく、送り火はやはり寂しさがわいてきます」
ご先祖さまを大切に思う心が親から子に、子から孫に、さらに末代まで伝えられ家運は繁栄いたします。
ご先祖さまは、忘れられ去られることを嫌います。
私たちも家族、友達から無視されたら悲しいのと一緒です。
私たちが何故今ここにいるかをお考え下さい、全てご先祖さまがあってのことです。(心の中でありがとう)
お彼岸とは秋分の日を中日として前後3日間をお彼岸としており、春分の日と秋分の日はともに「太陽が真東から上がり、真西に沈む」極楽浄土は真西にあると言われており、あの世とこの世が一番近くなる日と聞いたことがあります。
お盆も、お彼岸もご先祖供養致しましょうと言うことであり、お彼岸の日には(おはぎ)が良くごスーパーで目にいたしませんか。
「春の彼岸ではぼたもち」「秋の彼岸ではおはぎ」と言います。
同じ食材でありながら違う理由は「春の牡丹の花、秋の萩の花」これも色々な説があり、春の小豆は硬くなり、つぶしこすことで食べやすく、秋の小豆は柔らかくそのままで食せると言います。
春のお彼岸ではぼたもち、秋のお彼岸ではおはぎと呼ぶようになったと言います。
お彼岸は「波羅蜜多」から来たと言われ」煩悩と迷いの世界である【「此岸」しがん】にあるものが、
「六波羅蜜」(こちら)の修業をすることで「悟りの世界」それは【「彼岸」ひがん】の境地に到達されると言われます。
この世では、目の前にある数々の執着、煩悩を消し悟りの境地に達しなければなりません。
大切なことは
図らずも私たちはこの世で生かさせていただいております。
今を生きることに感謝をする事で、ご神仏さまからご利益がいただけます。
実は浄土真宗ではお盆は行いません。浄土真宗の教えでは亡くなられてすぐに阿弥陀如来さまの極楽浄土いかれるので他の宗派のように、亡くなられてあの世で修行する必要が無いと言う教えであり、大げさに仏教上ではお盆は行わないと言う教えです。
仏具店では、浄土真宗の教えはいつもご先祖さまは阿弥陀如来さまのおそば極楽浄土におられるので、いつでもご仏壇におられるのでお盆はなく、仏教では「盂蘭盆会」をお盆として法話をなされるとお聞きいたしました。
又神棚も置いてはいけないと言います。
しかし私の聞いた話では多くのお寺さんでも神棚はお祀りしておられるようです。
我が家は浄土真宗で神棚を祀り、お盆も行い、ご仏壇には宗派の異なる仏さまがご朱帳にたくさんおられますがあまり気にしないようにしております。
仏さまのお供え物は、おさがりとしていただくことでご利益があると言われ、これは仏さまだけでなく神さまからも同じことで「神饌」と呼ばれ有りがたい神さまからのおさがりものであり、我が家ではご神仏さまからのおさがりものは全員でいただいております。
お供え物はありがたくおさがりをいただくようにしましょう。
今回は第256回を加筆させていただいております。
生きとして生けるもの全てが幸せでありますように!
ジュエリーニシオカ(https://e-dia.jp)
にしおかまさる
お彼岸はこの世とあの世を今一度お考えになる日でもあります。
お彼岸も過ぎて、10日程経ちます。
今一度お彼岸を御考えることもご先祖供養に成るかと思います。
お読みになり実践することでご神仏さまから「徳」をいただけます。
二月ほど前にお盆を迎え、ご先祖さまとの楽しい日々を過ごし、すぐにお彼岸がやってきました。
お彼岸は秋分の日を中日に前後3日間で7日間をお彼岸と言い、お盆とお彼岸の違いを意外と知らない方が多くおられ、私のブログでは簡単に違いを投稿してみます。
違いを知ったのは10年程前かと思います。
お盆は、ご先祖さまが郷帰りをする日であり、私たちも郷帰りをしてご「先祖さまのあり日を思い出し」楽しいひと時を過ごします。
13日は家族でご先祖さまを玄関で迎え火を焚き、16日には又送り火を焚きご先祖さまをお送りいたします。
「迎え火は嬉しく、送り火はやはり寂しさがわいてきます」
ご先祖さまを大切に思う心が親から子に、子から孫に、さらに末代まで伝えられ家運は繁栄いたします。
ご先祖さまは、忘れられ去られることを嫌います。
私たちも家族、友達から無視されたら悲しいのと一緒です。
私たちが何故今ここにいるかをお考え下さい、全てご先祖さまがあってのことです。(心の中でありがとう)
お彼岸とは秋分の日を中日として前後3日間をお彼岸としており、春分の日と秋分の日はともに「太陽が真東から上がり、真西に沈む」極楽浄土は真西にあると言われており、あの世とこの世が一番近くなる日と聞いたことがあります。
お盆も、お彼岸もご先祖供養致しましょうと言うことであり、お彼岸の日には(おはぎ)が良くごスーパーで目にいたしませんか。
「春の彼岸ではぼたもち」「秋の彼岸ではおはぎ」と言います。
同じ食材でありながら違う理由は「春の牡丹の花、秋の萩の花」これも色々な説があり、春の小豆は硬くなり、つぶしこすことで食べやすく、秋の小豆は柔らかくそのままで食せると言います。
春のお彼岸ではぼたもち、秋のお彼岸ではおはぎと呼ぶようになったと言います。
お彼岸は「波羅蜜多」から来たと言われ」煩悩と迷いの世界である【「此岸」しがん】にあるものが、
「六波羅蜜」(こちら)の修業をすることで「悟りの世界」それは【「彼岸」ひがん】の境地に到達されると言われます。
この世では、目の前にある数々の執着、煩悩を消し悟りの境地に達しなければなりません。
大切なことは
図らずも私たちはこの世で生かさせていただいております。
今を生きることに感謝をする事で、ご神仏さまからご利益がいただけます。
実は浄土真宗ではお盆は行いません。浄土真宗の教えでは亡くなられてすぐに阿弥陀如来さまの極楽浄土いかれるので他の宗派のように、亡くなられてあの世で修行する必要が無いと言う教えであり、大げさに仏教上ではお盆は行わないと言う教えです。
仏具店では、浄土真宗の教えはいつもご先祖さまは阿弥陀如来さまのおそば極楽浄土におられるので、いつでもご仏壇におられるのでお盆はなく、仏教では「盂蘭盆会」をお盆として法話をなされるとお聞きいたしました。
又神棚も置いてはいけないと言います。
しかし私の聞いた話では多くのお寺さんでも神棚はお祀りしておられるようです。
我が家は浄土真宗で神棚を祀り、お盆も行い、ご仏壇には宗派の異なる仏さまがご朱帳にたくさんおられますがあまり気にしないようにしております。
仏さまのお供え物は、おさがりとしていただくことでご利益があると言われ、これは仏さまだけでなく神さまからも同じことで「神饌」と呼ばれ有りがたい神さまからのおさがりものであり、我が家ではご神仏さまからのおさがりものは全員でいただいております。
お供え物はありがたくおさがりをいただくようにしましょう。
今回は第256回を加筆させていただいております。
生きとして生けるもの全てが幸せでありますように!
ジュエリーニシオカ
にしおかまさる